奈良・興福寺の歴史・建築の特徴を分かりやすく解説!ディープに楽しむ観光ガイド。




この記事では興福寺の歴史・建築様式を分かりやすく解説します。

多くの国宝を所有する歴史あるお寺です。ぜひご覧ください。

奈良・興福寺の歴史を解説

歴史の説明は

簡単短いバージョン」と「分かりやすい長めバージョン」があります。

ニーズに合わせてご覧ください。

興福寺の創建を簡単解説(短め)

創建したのは鏡大王(かがみのおおきみ)
大化の改新で有名な中臣鎌足(藤原鎌足)の奥さんです。

夫の病気が治るよう、669年に山階寺(やましなでら)を建てたことがきっかけ。

京都にあった山階寺は、京都→藤原京(飛鳥)→平城京(奈良)と二度移動します。
平城京(奈良)に移したときに、息子の藤原不比等が「興福寺」と名付けました。

藤原家と深い繋がりのあるお寺(氏寺)として栄えました。

興福寺の歴史を分かりやすく解説(長め)

興福寺ができるまで

669年 鏡大王(かがみのおおきみ)山階寺(やましなでら)を建てる
672年 藤原京へ移り、厩坂寺(うまやさかでら)と名付ける
710年頃 藤原不比等が平城京へ移し、興福寺と名付ける

興福寺が誕生したのは710年頃ですが、その前身となる山階寺は現在の京都府山科区に建てられました。

きっかけは、大化の改新で有名な中臣鎌足(後の藤原鎌足)が重い病にかかったこと。
奥さんの鏡大王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願い「山階寺・やまなしでらを建てました。寺の中には中臣鎌足が造った「釈迦三尊像」が安置されました。

672年に藤原京(現在の奈良県橿原市)移し、地名から「厩坂寺・うまやさかでらと名付けられます。

そして710年頃、息子の藤原不比等が平城京へ移し、「興福寺」と名付けました。

669年に創建されてから、京都(山階寺)→藤原京(厩坂寺)→平城京(興福寺)と、場所を2度移転しています。

藤原鎌足藤原不比等が創建に関わっており
藤原家と深い繋がりのあるお寺(氏寺)として栄えていきます。

興福寺が完成するまで

714年 藤原不比等が中金堂を建立する
721年 藤原不比等が亡くなり、元正天皇が北円堂を建立する
726年 聖武天皇が東金堂(とうこんどう)を建立する
730年 光明皇后が五重塔を建立する
734年 光明皇后が西金堂(さいこんどう)を建立する
813年 藤原冬嗣が南円堂を建立する

そうそうたる顔ぶれが、建立にかかわっていますね。
奈良時代になると興福寺は朝廷の役所となり、国が建立に関わるようになりました。

平安時代には廃れていく寺院が多い中、興福寺は藤原北家に手厚く保護されました。
奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされています。

興福寺は大和国の荘園のほとんどを所有。戦う僧侶「僧兵」を擁し、強大な力を持つようになりました。
また、藤原家の氏神「春日社」の実権も握ります。

興福寺は大きな寺社勢力となり、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺・なんとほくれいと呼ばれるようになりました。
※南都→興福寺、北嶺→延暦寺、当時の大きな寺社勢力を指す

興福寺完成後~現在

1180年 平重衡(たいらのしげひら)の南部焼討→建物が全焼
1181年 信円・貞慶が再建に向けて動き出す

再建と焼失を繰り返す。

1717年 火災で主な建物が焼失
1868年 神仏分離令により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こる
1881年 興福寺再興が許可される

1998年 「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録される

大きな勢力となった興福寺は平氏に対し反抗的な態度をとります。
そのため1181年、平重衡(たらいのしげひら)による焼き討ちにあいます(南都焼討)。

興福寺と東大寺は伽藍のほとんどが焼失。
その後も度々火災があり、そのたびに再建されました。

1868年には明治政府の神仏分離令により、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こります。
※廃仏毀釈…仏を廃し、釈迦の教えを壊すこと。仏教を排除すること。

興福寺は領地を失い、僧侶は強制的に春日社の神職にされ、
興福寺と名乗ることも許されず、建物は県庁や役所として利用されます。
つまり廃寺同然の扱いとなってしまいました。

廃仏毀釈運動の波は明治時代の中頃には収まり、1881年(明治14年)から興福寺の復興がスタートします。

1998年に世界遺産に登録。
現在も興福寺の復興・整備が進められています。

興福寺の建築・特徴を分かりやすく解説

【国宝】 東金堂 

室町時代/国宝
奥行 14.1m
25.6m
建立 1415年
寄棟造、本瓦葺き

726年聖武天皇が祖母の病気平癒を願い創建されました。
現在は1415年(室町時代)に再建されたものです。

建築の特徴

室町時代に再建された東金堂ですが創建当時の雰囲気がしっかり残っています。

建築の特徴をいくつかあげます。

寄棟造(よせむねづくり)

こちらが寄棟造(よせむねづくり)の屋根です。
屋根面が4方向に傾斜しています。

吹き放し・三手先斗栱(みてさきときょう)

東金堂の全面は「吹き放し」
壁はなく、柱のみが立っている開放感のある空間です。

三手先斗栱(みてさきときょう)という立派な組物が多く使われています。
三手先斗栱は三段の組物で、重い屋根をしっかり支えています。

天平文化(奈良時代)の代表建築物、唐招提寺も同じ特徴を持ちます。

興福寺・東金堂

こちらが興福寺の東金堂。

唐招提寺・金堂

こちらが唐招提寺の金堂。

屋根の形や雰囲気が似てますよね?
東金堂は唐招提寺金堂を参考に再建されました。

【国宝 】五重塔の特徴・建築

室町時代/国宝
高さ 50.1m
建立 1426年
五重塔婆、本瓦葺き

藤原不比等の娘、光明皇后が730年に創建しましたが
何度も火事にあい、現在ある塔は室町時代に(1426年)に再建された6代目です。

実は奈良県内で最も高い建築物なんです。
奈良市内のいろんな場所から見られる、古都奈良のシンボル。

木造の五重塔では、日本で2番目の高さ。
一番高いのは京都にある東寺の五重塔です。

建築の特徴

創建された奈良時代の建築様式(三手先斗栱、本瓦葺など)
再建された室町時代の建築様式を合わせた、折衷様式となっています。

五重塔ではありますが、五階建てではありません。
塔の真ん中に心柱が一本立っており、それが天井の上まで貫いています。

心柱を囲うように層が積み上がっています。

「積み上げ構造」と呼ばれ、地震に強い作りとして有名です。
※法隆寺の五重塔やスカイツリーも同様のつくり

五重塔の初層には
東側→薬師三尊像
南側→釈迦三尊像
西側→阿弥陀三尊像
北側→弥勒三尊像
が安置されています。

通常非公開ですが、数年に一度のペースで一般公開されています。
生きているうちに一度拝見してみたいですね。

【国宝】北円堂

鎌倉時代/国宝
高さ 約15m
直径 11.7m
建立 1210年(鎌倉時代)
八角円堂、本瓦葺

日本で最も美しい八角形のお堂と言われています。
また興福寺では最も古い建物です。

北円堂は、721年に藤原不比等の一周忌に創建されました。現在の北円堂は1210年(鎌倉時代)に再建されたもの。

やや西側の外れに建っていますが、北円堂から平城京を見渡すことができます。平城京造営に深く関わった藤原不比等の慰霊に最良の地として選ばれた場所です。

北円堂内の仏像は通常非公開ですが、春の秋の一定期間だけ一般公開されます。

興福寺の仏像・見どころをまとめた記事

拝観料・営業時間・お問い合わせ

・拝観料 割引

国宝館
大人 700円
高校生 600円
中学生 600円
小学生 300円

東金堂
大人 300円
高校生 200円
中学生 200円
小学生 100円

中金堂
大人 500円
高校生 300円
中学生 300円
小学生 100円
※2022年3月現在、中金堂は拝観できません。

※全て団体割引・身障者割引あり
※最新情報・詳細はこちら(興福寺ホームページ)

・営業時間 定休日

9:00~17:00

定休日 なし

※最新情報はこちら(興福寺公式ホームページ)

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