今回ディープにご紹介するのは、
奈良県奈良市にある世界遺産、唐招提寺(とうしょうだいじ)です。
目次
世界遺産「唐招提寺」創建の理由・歴史

創建年
759年(奈良時代)
創建者とその理由(簡単に)
創建者は鑑真(がんじん)です。
朝廷から譲り受けた土地に、戒律を学ぶための寺を作ったのがきっかけ。
創建時には講堂など一部の建物でしたが、弟子の如宝(にょほう)が金堂などを建て、寺を完成させました。
唐招提寺の宗派
律宗(りっしゅう)
戒律の研究、実践に重点をおく仏教。
奈良時代に栄えた仏教、南都六宗の一つです。
鑑真の歴史
鑑真を知ることで、唐招提寺の見どころがより理解しやすくなると思います。
少し長いですが分かりやすくまとめたので、良ければご覧ください。
By Original: 俊武Later versions: Garam – 『世界史年表・地図』, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93190959
688年 鑑真が唐の揚州で生まれる(揚州の場所は地図中の青い丸の中)
14歳で出家し、20歳で律宗・天台宗を学ぶ。
揚州の大明寺(だいめいじ)の住職になる。733年 栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が遣唐使とともに唐に到着
なぜ栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)、二人の僧侶が日本から唐にきたのか?
当時の日本は、仏教によって良い国にしようと、寺や仏を次々と建てていました。
そのための財源や労働力は農民から。
農民は重税と労働に苦しめられていました。
一方、僧には納税の義務がありません。
重税に苦しんだ農民らは、次々と僧になります。
特別な許可は必要なく「私は僧です」と言えば、僧侶になれてしまう(私度僧)
僧としての学びのない者がふえ、国や仏教の風紀が乱れまくっていました。

そこで聖武天皇は「授戒・じゅかい」を制度化する事を決意します。
「授戒」とは正式な僧になるための儀式です。
導師が「戎・かい」を授け、出家者は10人以上の僧の前で戒を一生守る事を誓います。
※戎とは、僧侶になるための決まり・いましめのこと。信者用の「菩薩戒」、正式な僧用の「具足戒」2種類ある。
唐には授戒の制度が整っていましたが、日本には導師すらいない状態。
聖武天皇は導師を求め、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)を唐へ派遣しました。
無事、唐に着いた二人ですが、探せど探せどなかなか見つかりません。
それもそのはず。当時日本へ行くことは命がけの行為の上に、出国は国から禁止されていました。
つまり2つの意味で命がけの密出国となります。
そんなリスクを犯して日本へ行く僧などいるはずもなく。

探し続けること約10年。
途方に暮れる栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、一人の高名な僧「鑑真」の噂をききつけます。
742年 栄叡と普照が鑑真のもとを訪れ、日本に来るよう懇願される
→鑑真(55歳)が日本へ行くことを決意!743年~ 日本へ行こうとするもたびたび失敗。
鑑真は病にかかり失明する。753年 6回目にして鑑真(66歳)が日本に到着。
大宰府観世音寺にて日本初の「授戒」を行う。754年 東大寺大仏殿にて「授戒」が行われる。聖武天皇など400名に戎が授けられた。
755年 日本初正式な授戒施設「東大寺戒壇院」を建立。759年 唐招提寺を建立
763年 76歳で亡くなる
742年、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は鑑真のもとを訪れます。
必死の説得に心を打たれた鑑真は、来日を決意。
しかし弟子の密告や悪天候により、たびたび失敗しました。
その間に栄叡(ようえい)が亡くなり、鑑真は失明。困難を極めます。
なんとか日本へ辿りついたのは、約10年後の753年でした。
※唐招提寺の戒壇(授戒をする場所)
熱烈歓迎を受けた鑑真は、大宰府観世音寺(現在の福岡県)や東大寺で「授戒(じゅかい)」を行います。
翌年には東大寺に授戒施設「東大寺戒壇院(かいだんいん)」を建立。
授戒制度が整ったため、自称僧侶は居なくなり、風紀の乱れは劇的に改善しました。
758年、天皇の配慮により任を解かれ、自由の身になります。
翌年には新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅地が与えられ、
戒律を学び身につけるための施設として唐招提寺を創建します。
※新田部親王(にいたべしんのう)…天武天皇の息子
また「悲田院」を作り、貧しい人や孤児を助ける活動を熱心に行いました。
唐招提寺で4年過ごし、76歳で亡くなりました。
唐招提寺の歴史

759年 唐招提寺を建てる
8世紀後半 弟子の如宝(にょほう)が唐招提寺を完成させる1270~1287年 修理修繕が行われる
1692年~ 金堂・仏像が修理される地震と火災で多くの建物が失われる
1900年~ 解体修理が行われる
1998年 「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録
(平成10年)
2000年 金堂平成大修理が始まる(約10年間)
(平成12年)
創建された当時は講堂といくつかの建物があるのみ。
鑑真の没後、弟子の如宝(にょほう)が金堂などを建て、唐招提寺を完成させました。
地震や火災により建物が焼失してしまいますが、改修と再建を繰り返し、今の姿となっています。
唐招提寺観光ガイド 特徴・見どころまとめ
唐招提寺を観光する前に知っておきたい、建物の特徴・見どころを紹介します。
国宝 「金堂」の特徴・建築
唐招提寺最大の見どころ「金堂・こんどう」です。
南大門をくぐると、緑豊かな参道と重厚な金堂が見えます。

高さ 17.7m
奥行 14.6m
幅 28m
建立 8世紀後半(奈良時代)
寄棟造、本瓦葺き
金堂は鑑真和上が亡くなった後、弟子の如宝(にょほう)によって建てられました。
奈良時代に建立された、唯一現存する「金堂」です。
文化史でいえば、平城京を中心とする「天平時代」のもの。
天平時代の屋根は「勾配が穏やかで軽快」という特徴がありますが、金堂は逆。
立派な屋根が重厚感を演出しています。
なぜ唐招提寺の屋根は重厚なのか?
江戸時代(元禄)に行われた改修が理由です。
雨水の水はけを良くするため屋根が2m高くなり、現在の重厚な屋根となりました。
創建されて1200年以上経ちますが、多くの部材が創建当時のものです。
※部材…柱や組物など
見どころは「8本の列柱」

金堂と言えば吹き放しとなった8本の柱が見どころ。
この柱、実は「エンタシス」です。
柱の太さをよ~く見ると、中央が一番太くなっていますね。
下から見上げた時に柱が真っ直ぐに見える視覚効果があります。
また列柱の柱間は中央ほど広く、外側は狭くなっています。
それにより強度が増し、建物をより大きく見せる効果があるそう。
重厚さが感じられる一方で、吹き放しの柱により開放感や明るさもあります。
美しさの秘密は黄金比と鴟尾

なんと金堂は「黄金比」で作られています。
黄金比とは人間にとって最も美しいと感じる比率のこと。
金堂の縦横の長さは、黄金比の1:1.618となっています。
パルテノン神殿、パリの凱旋門、エジプトのピラミッド、金閣寺なども実は黄金比で作られています。
金堂の屋根の上にある「鴟尾・しび」も有名です。
大陸から伝わった屋根の装飾品であり、火除のおまじないであり、雨から屋根を守るもの。
西側の鴟尾(しび)は創建時のものでしたが、損傷が激しいため平成の大修理で取替えられました。
創建時の鴟尾は新宝蔵(しんほうぞう)で見学可能です。
金堂内の仏様
ご本尊:盧舎那仏坐像・るしゃなぶつざぞう
国宝 奈良時代
OGAWA SEIYOU – JYODAI NO TYOUKOKU (ANCIENT JAPAN SCULTPURES), ASAHI-SHINBUN Co., 1942,OOAKA, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる
像高は約3m、光背は5mを超えます。
座っている像が3mを超えるなんて…本当に大きいですね。
光背には千人の仏が並んでいましたが、現在は862体が残っています。
脱活乾漆像(だっかんかんしつぞう)で作られています。
粘土で作った原型に麻布(あさぬの)を漆で貼り重ねて造る方法。
手間暇のかかる方法ですが、奈良時代によく用いられました。
本尊の右:薬師如来立像
国宝 平安時代
像高3.36m
現存する薬師如来立像では最大のものです。
本尊の左:千手観音立像
国宝 奈良時代
像高5.35m
本当に千本の手がある千手観音立像ですが、現在は953本です。
安置されている仏様の謎
<a href=”//commons.wikimedia.org/wiki/User:Mstyslav_Chernov” title=”User:Mstyslav Chernov”>Mstyslav Chernov/Unframe/unframe.com</a> – <span class=”int-own-work” lang=”ja”>投稿者自身による作品</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
盧舎那仏(るしゃなぶつ)、薬師如来、千手観音の組み合わせは、大変珍しく他に例が無いそうです。
なぜこの御三体なのか?
長い間謎とされてきましたが、一説をご紹介します。
鑑真和上が来日後、聖武天皇の命により戒壇院が3箇所に作られました(天下三戒壇)
・奈良県の東大寺
・栃木県の下野薬師寺(しもつけやくしじ)
・大宰府の観世音寺
それぞれの御本尊が、唐招提寺に祀られているのではないか?と言われています。
東大寺→盧舎那仏
下野薬師寺→薬師如来
観世音寺→千手観音
日本の授戒は鑑真和上のおかげで整いました。
その業績に敬意を示し、御三体を唐招提寺のお祀りしたのかもしれませんね。
国宝 「講堂」の特徴・建築

建立 760年頃(奈良時代)
入母屋造、本瓦葺き
平城宮内にある東の朝集殿を朝廷から譲り受け、こちらに移築、寺院用に改造されました。
唯一現存する天平時代の宮殿として大変貴重です。
※朝集殿(ちょうしゅうでん)…家来の控室
仏教や戒律を研究し伝授するための施設として、最初に建てられました。
金堂内に安置されている仏像
・弥勒如来坐像(鎌倉時代/重要文化財)
・持国天立像(奈良時代/国宝)
・増長天立像(奈良時代/国宝)
国宝「鼓楼・ころう」

建立 1240年(鎌倉時代)
入母屋造、本瓦葺き
金堂と講堂の間に建つ、2階建ての建物です。
1階には鑑真和上の仏舎利(ぶっしゃり)が安置されているため、「舎利殿」とも呼ばれています。
毎年5月19日にはうちわまき会式(梵網会・ぼんもうえ)が行われ、法要の後に鼓楼からハート型のうちわがまかれます。
うちわには病魔退散や魔除けのご利益があるそう。
開山堂・御影堂

こちらが「開山堂・かいさんどう」
江戸時代に作られ、1881年(明治14年)に現在の位置に移築されました。
誰もが一度は目にしたことがある鑑真和上坐像(国宝)が安置されていた建物です。
鑑真和上坐像は弟子の忍基が、鑑真の死期が近づいた事を悟り造ったもの。
日本最古の肖像彫刻であり、傑作と評判です。
現在は、鑑真和上お身代わり像がいらっしゃいます。
これまでの知見と技術を生かし、丁寧に再現された本格的な像です。
開山堂から道を挟んで反対側に「御影堂・みえいどう」があります(重要文化財)。
元は興福寺の別当坊だった建物が、1964年(昭和39年)移築されました
鑑真和上坐像が安置されていますが通常は非公開。
毎年6月5日から3日間開扉されます。
※2022年3月まで御影堂は工事中のため、新宝蔵へ。2022年6月の開扉も新宝蔵で行われます。
東山魁夷(ひがしやまかいい)が10年以上の歳月を費やした障壁画が奉納されています。
※障壁画(しょうへきが)…建物の床、壁、ふすま、天井などに描かれた絵の総称。
濃淡で描かれた雄大な自然は、大変色鮮やかで美しいです。
新宝蔵

1970年(昭和45年)に造られた新宝蔵。
毎年春と秋に公開されます。
唐招提寺が持つ多くの文化財が保存され、一部が公開されています。
かつて講堂に安置してあった木造群
薬師如来立像(奈良時代/国宝)
獅子吼菩薩立像 ししくぼさつりゅうぞう(奈良時代/国宝)
衆宝王菩薩立像 しゅうほうおうぼさつりゅうぞう(奈良時代/国宝)
頭や両手先のない姿が「唐招提寺のトルソー」として著名な
如来形立像 にょらいぎょうりゅうぞう(奈良時代/重要文化財)
金堂に飾られていた鴟尾 しび(奈良時代/国宝)
が、主な見どころです。
国宝「宝蔵・経蔵」の特徴・建築
※画像手前が宝蔵です。
建立 奈良時代(8世紀)
寄棟造 本瓦葺 校倉
北側が宝蔵、南側が経蔵。
宝蔵(ほうぞう)とはその名の通り、宝を収めておく倉庫。
経蔵よりやや大きく、唐招提寺創建時に建てられました。
経蔵(きょうぞう)は経典を収めておく倉庫。
新田部親王(にいたべしんのう)宅の米倉を改造したもの。
経蔵は日本最古の校倉造です。
校倉造の代表作は東大寺正倉院。
高床、井桁 (いげた) を組んで壁を作る、保存に良いとされる建築物です。
拝観料・営業時間・お問い合わせ
・拝観料
大人 1,000円
高校生 400円
中学生 400円
小学生 200円
団体割引あり
※詳細はこちら(唐招提寺ホームページ)
・営業時間 定休日
8:30~17:00
定休日 なし
・施設情報(トイレなど)
トイレ・売店あり
・お問い合わせ
0742-33-7900
※最新情報はこちら(唐招提寺公式ホームページ)
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参考図書
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